僕はずっと、幸せは相対評価だと思っている。
こうなったら絶対に幸せになれるなんてことはなくて、何かと比べたらこれは幸せなんだなと感じるということだ。
だって、仮にこうなったら幸せになれるというレベルが存在した場合、世の中の人たちの幸せな人と幸せでない人の基準が明確になっているはずだ。
でも実際のところそうではなくて、同じような環境の中でも幸せだと感じる人もいれば、自分は不幸だと感じる人もいる。
これは周りと比べてもそうだし、自分の中で比べても同じことが言える。
僕の場合だと、こんな例がある。
おばあちゃんちに行った時には、いつもおばあちゃんの買い物に着いて行っていた。
親の買い物には絶対に着いて行かなかったのに。
おばあちゃんと行けばお菓子が買ってもらえるから。
一個までなら良いよという言葉に甘えて、いつもポケモンの組みを買っていたような気がする。
あれをカゴに入れ、レジの反対側で待ち、支払いを終えたら、あの小さなビニール袋に入れてウッキウキで持って帰るのだ。
そして家で一つずつ取り出しながら食べる。
その時間がかなり幸せだったように思える。
他にもこんな例がある。
塾を作ったばかりの頃は本当にお金がなかったので、何を血迷ったか僕は、大学時代に貯めていたアマゾンポイントで買ったパックご飯と100円カップ麺(麺1.5倍のやつ)で飢えを凌いでいた。
よくいる数学特化型みたいな子の成績表のような栄養バランスのレーダーチャートだったと思う。
炭水化物に振り切っていた。
あの状態がずっと続いていれば、僕が体調を崩すのが先か、生徒が増えるのが先かみたいな勝負だったと思う。笑
いやー、でも自分で買い物をし始めて、野菜や肉の値段の高さに驚かされるので、バランスの良い食事というのは、かなり贅沢なものなんだということを知った。
そのなけなしのアマゾンポイントで買ったパックごはんを食べる時に、たまに「ごはんですよ」なんかを買ってかけて食べていた。
そんなちょっとした贅沢に、僕は小さな幸せを感じていた。
「ごはんですよ」うっま。
白飯うっま。
みたいな感じで。笑
今はポケモングミを買おうと思えば買えるし、「ごはんですよ」をかけようと思えばかけることができるようにはなった。
でも、どちらもその時ほどの幸せは感じられない。
今でも「ごはんですよ」はうまいなぁと思えるけど、幸せの感じ方は明らかに落ちている。
1年前に家を引っ越して、先日、車を買って、ひとまず僕の欲はある程度満たされたわけだ。
今のプライベートの生活は結構幸せであると胸を張って言える。
(仕事のほうは3階を借りたばかりでまだまだこれからがんばらないといけない。笑)
幸せを感じるハードルはちょっとずつ高くなっていると思うので、これが良いのか悪いのかで言うと、あまり良い方向ではないような気はするけど。
でも前にこんなことを言われた。
「自分を幸せにできないのに、周りの人を幸せにしようってのは難しいんじゃない?」
ということで、まずは僕を幸せにしようと思う。
「もう自分に欲はないから、周りの人が幸せになることが僕の幸せにつながる。」
心からそう言えるように、まだまだ頑張ろうと思う。
それでは今日はこの辺で。
ではではまた明日。